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伊那(竜西)秩父札所を巡り終って、さすがに1851(嘉永4)年の道中記にある札所を全て確認するのは無理でした・・・。観音の他に薬師や十王なども混在しているし、全ての所在を自力で確認するのは困難極まりないです。柏心寺の住職さんに伺ったところ、柏心寺にも秩父札所だった記録は残っているが、観音像は存在していないみたいです。 |
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※飯田市観光による白山社概要に「古くから神仏習合し江戸時代までは白山寺として山頂には神社の社殿以外に五重塔や三重塔、峰薬師、不動堂、虚空蔵堂などの堂宇が建立され、里部には仁王門、本地堂、庫裏、書院、持仏堂などがありました。明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏式が廃され、多くの堂宇が破棄され、残った建物も仁王門は随神門に護摩堂は里宮拝殿に転用され神社としての体裁が整えられた。」とありました。 |
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※現在は伊那坂東の30番札所となっている願王寺が、河西秩父の23番札所として指定されていました。嘉永4年当時は秩父札所だったんですね。嘉永4年の伊那坂東には八幡の神宮寺が入っていました。神宮寺とは、現在の鳩ヶ嶺八幡神社で、白山寺と同じく、明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏式が廃されたのかな?市有形文化財の『鬼神面』の紹介に「明治初期の廃仏毀釈まで鳩ヶ嶺八幡宮に付属した神宮寺において、追儺行事ないしは修正会に使用された可能性が考えられる。中世に遡る古面としても、神宮寺の数少ない遺物としても貴重である。」と紹介されている。 |
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浄玄寺にて |
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竜西秩父時代には浄源寺?と称されていたみたいですが、このような紹介がされていました。大御堂も合祀とされていますね、現在は浄玄寺になっています。
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観照寺にて |
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観照寺には阿智村観光協会による、このような紹介がありました。
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正命寺にて |
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正命庵だったという記述はありません。
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三穂地区にて |
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南伊豆木に在ったとされる『極楽庵』と『南面堂』を探して、三穂の公民館に寄ったりしながらウロウロとしてみたが、詳しい情報は得られませんでした。上の画像にある伊豆木南平の妙正寺や、その近くの集会所から雰囲気的なものを感じたが、伊豆木には西国の門田観音堂(集会所)の他に、関岡観音・観音寺跡・伊豆木八幡社なる箇所も存在しているみたいなので、もう少し地元で情報を収集すれば、近づくことができると思います。 |
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2012/11/23 地方紙 南信州「わがムラの石仏文化財」から |
飯田下伊那地方の「ジュウオウドウ」に関する地名は13種類27カ所を数えるが、その地名のある場所に、十王堂も十堂像も置かれていないのが現状である。当地方の十王像所在地は41カ所あるが、地名と同一箇所のものは4カ所のみであり、その大半が道路工事などにより移設されたり壊されたりして、ジュウオウドウ関係地名とは名ばかりになっている。 |
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2019/06/06 |
アルプス煙火から、立石に抜ける林道の途中に「極楽庵」の看板を見つけたので、入ってみるとそこには東屋がありました。以前はここに観音堂があったのだろうか?とりあえず三穂地区なので、未確認だった極楽庵に東屋の画像を載せておこう。 |
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JAみなみ信州「風越山三十三所観音像の一つに一色村の石仏」から引用。 |
一色村(飯田市鼎一色地区)には、かつて観音堂(本泉庵)が現在の一色公民館の場所に昭和38年までありました。創立は貞和元年(1345年)と歴史は古く、焼失再建が文化6年(1809年)との記録があり、上記の文化元年とほぼ時代が一致し、観音信仰が盛んだったことが伺えます。本泉庵は伊那秩父34札所観音の22番札所にあたり、尼さんの修行場でもあり、旧飯田の寺院との深い親交から、一色村は風越山に観音石仏を寄進したと思われます。一色村が寄進した観音は、奈良・興福寺の南山堂にある不空羂索観音(ふくうけんじゃくかんのん)を模したものです |
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